タイの歴史はどこから手をつければいい?タイの歴史講座/第0回 タイ国の歴史を学ぶ前に知っておきたい大前提 

本日から何回かに分けて、タイの歴史についてわかりやすく説明していきたいと思います。


今回は「第0回」と題して、そもそもタイの歴史を理解する上で前提となることを書いていきます。 


目次

【大前提①】タイ族=タイ人ではない。

東南アジアに散在する「タイ族」
タイ族は、現在のタイに住むタイ人に加え、中国南部(広西壮族自治区、雲南省の一部)からインドシナ半島、インド東部付近かけて分布しています。

  • タイ族の現在の総人口は約一億人程度。
  • ちなみに、現在タイの人口は6,900万人くらい
  • その大半が「タイ族」ですが、50以上の少数民族も一緒に暮らしています。
  • つまり、ザックリと4,000万人前後のタイ族が、タイ以外の地域に住んでいる。
  • タイ族の出自は、中国の揚子江(華南地域)以南であるという説が一般的。

むかしタイ族は、米を育てるための水源&土地を求めて、同地域から南進・西進して、現在のタイが存在する土地に定住しました。

米作りに適したチャオプラヤー側沿いを首都が南下したのは、まさにそれです。


タイ族が移動してきた中で、様々な要因でタイ国以外の各地域に散らばることとなりました。

大昔はタイ族は一つの言語を話していたので、他国にいるタイ族はいまでもタイ語に似た言語を話すそうです。
 


【大前提②】昔からあって今も使う言葉 「ムアン=くに」


タイ族の「くに」ムアンとはムアンとは、タイ族の「くに」、集団の単位、共同体のことを指します。

この単位は、タイの昔の統治制度に深くかかわっています。

ムアンは、農業に基盤を置いた政治権力で、その強弱は①領主の資質、②農業生産力に左右されました。

タイ族は「水田に適した地域=農業生産力が高い地域」を探し求めて、メコン川沿いを南進、西進しチャオプラヤー川流域に到達しました。


強力なムアンが出現すると、周辺の弱小ムアンを平定して、政治権力を更に高めました。

小ムアンが他の小ムアンを支配して中ムアンに、中ムアンが他の中ムアンを支配して大ムアンに・・・と繰り返して成り立ったのが、現在のタイやラオスのいったタイ族の国民国家です。


タイ人は、今でも自国のことを「ムアン・タイ」と呼び、地方に行くとその都市の中心部を「ナイ・ムアン」と呼びます。

このように「ムアン」は姿と意味を変えて現代にも残っています。

【大前提③】タイの首都はスコータイ→アユタヤ→トンブリー→バンコクと4回移動。
昔、チェンマイは別の国だった。


タイはこれまで4回にわたり首都を移転してきました。

タイで初めて王朝が成立したのは1240年のスコータイ王朝(※)。それまで以前は、隣国クメール王国に支配されていました。
※王朝とは、一つの一族がタイ国領土を支配する期間だと考えてください。


その後の流れはざっくりと以下の通りです。

年代王朝名首都
〜1240年クメール王国(カンボジア)による支配
1240〜1378年スコータイ王朝スコータイ県
1351〜1767年アユタヤ王朝アユタヤ県
1767〜1782年トンブリー王朝バンコク
1782〜2023年(今)チャックリー王朝バンコク

江戸幕府が264年ですので、アユタヤ王朝の417年、チャックリー王朝の237年というのは相当長いですね。

尚、アユタヤ王朝は一時期ミャンマーに支配されていた時期があり(その後再び独立)、 チャックリー王朝は途中で絶対王政→立憲君主制に変わっています。


ちなみにチェンマイはラーンナー王国という別の国の王都でした

チェンマイをよく「タイの京都」と表現する人がいますがそれは間違いで、別の国の首都という意味で言うと沖縄の琉球の方が正しい例えかと思います。

【大前提④】絶対王政と立憲君主制ってなんですか?


スコータイ王朝からタイは絶対王政で国を統治していました。

絶対王政では「国の君主=王=最高権威」でした。

しかし1932年に立憲革命が起きて、「 国の君主=王 & 最高権威=憲法」となりました。

つまり憲法が国の最高のルールであり、王もそれに従わなくてはいけないということです。

今でも絶対王政の国はありますサウジアラビアオマーンカタールなど。

一方、立憲君主制は日本、イギリス、スペイン、タイなど。 
 
 


次回からタイの歴史を説明していきたいとおもいます!


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